2012年7月30日月曜日

再び楠公誕生地



明日香を発ち、再び楠公誕生地でトイレ休憩。
実は前から気になってた石があります。
今回良く見てみたところ、「左大峰山」と書かれてます。
右、も何か書いてますが、読めません。
でも実際左は大峰山ではないので、どこかから動かされて来たのでしょうね。
取り合えず長々と書きましたが、7月21日の明日香紀行は終了です。
歩数も今回は2万1千歩歩きました。

国営飛鳥歴史公園館



国営飛鳥歴史公園館へ戻って来ました。
もうへとへとです。
とにかく汗でべとべとなので、公園館で涼む事にします。
ここには明日香の史跡や古墳、資料館等の情報が集まってます。
明日香に初めて訪れる人は取り合えずここへ来るのがお勧めです。

2012年7月29日日曜日

檜隈寺跡4



於美阿志神社境内に石塔婆があります。
平安時代のものらしいのですが、「婆」ってどういう事?
「ばばあ」って事ではなく、卒塔婆の「婆」?
そもそも卒塔婆の「婆」ってどういう事?

そしてこの円になった石?これは何?
まるで沖ノ鳥島にある、あれの様。
色々調べてみたところ、塔心礎の複製の様です。

檜隈寺跡3



於美阿志神社の社の一つ、社の中に木の棒が沢山。
何故棒が?
中の神様は?
見たところ石の仏様に見えます。
お地蔵か?とも思われるが、腕が6本。
不動尊かな?
それとも庚申さん?

神社の説明版もあるが、剥げていて分りにくい。

檜隈寺跡2



キトラ古墳からずっと開発中の土地が続く。
地面からマンホールの様なものが沢山出ている。
ガス抜き?それとも地下に何かあるのかな?

於美阿志神社には沢山の社がありますが、変わった賽銭箱。
丸太の切り抜き?

そしてこの社の横には庚申?
この社が庚申か?

檜隈寺跡



ここは於美阿志神社の境内の中です。
境内には数個の礎石と土壇を残すだけです
於美阿志神社は、早くから飛鳥に根づいたと思われる東漢氏の祖・阿智使主氏を祀るとされています。
檜隈寺は、その東漢の一端を担う檜隈氏の氏寺であると言われています。

キトラ古墳4



キトラ古墳を離れて、広い道に戻る。
その道路周辺で今大きな開発が進められています。
何が出来るのかは分からないが、ぱっと見、公園の様な感じを受ける。
その中にも古墳の様なものがある。
このまま檜隈寺跡へ向かい歩く。

キトラ古墳3



キトラ古墳仮説保護覆屋があり、その前に説明版がありますが、これが異常に高い位置にあり、背伸びをしないと読めません。
しかも斜め平面に置かれているので、余計です。
写真でもお分かりになると思いますが、これが限界です。
覆屋と古墳はくっついていて、おそらく施設と石室は中で繋がってるのでしょうね。

キトラ古墳2



キトラ古墳に近づくが、やはり以前来た時と全く同じで、いったいどこがキトラ古墳?といった感じ。
施設はあるが、一般公開するでもなく、閉鎖的。
入口に多少の説明と写真を貼っている程度。
「ここがキトラ古墳です」なんて張り紙があるが、そうでもしないと分らない状態でした。

キトラ古墳


途中、自動販売機で水分を補給しようと思ったら、カエルが・・・
カエルが気の毒なので、購入を断念。
キトラ橋を越え、キトラ古墳へ。
以前来た時は発掘中で見れなかったので、今回は期待して来た。

土佐街道3



観覚寺遺跡周辺ですが、実際何処なのかは良く分かりません。
オンドルを備えた朝鮮式の建物らしい。

土佐街道2



高取町のマンホール、もみじと、花はなんだろう?
土佐街道の住民協定というのがあります。
建築協定の様です。
かなり厳しいですが、当然でしょうね。

土佐街道



キトラ古墳に向かう途中、高取町の土佐街道を通る。
石畳の町並みで、昔の街道筋が維持されている。
石畳には薬草の絵と薬効が書かれている。
数メートル毎にそれがあります。
薬の町、高取町ならではです。

国府神社の庚申さん


国府神社の石段途中に謎の石の神様。
もしやと思い、ちょっと失礼して綱をめくってみると、やはり庚申さんだった。

国府神社



古そうな神社ですが、お社は余り大きくありません。
大和国府の所在地とする説もあります。

謎の卵?


念願の岡宮天皇陵を参った後、キトラ古墳を目指して歩く途中、田んぼに赤い卵?らしいものを発見。
なんだろう?

岡宮天皇陵2



因みにここも正面から参拝出来ません。
そういう天皇陵は結構あります。
その代わり、その分天皇陵の正面は吹き抜けの景色です。
意図的なものか、それとも景色を重視しての事なのか?

岡宮天皇陵



この岡宮天皇、実際には天皇ではありません。
草壁皇子の事です。
ここは前から一度訪れてみたかったのです。
持統天皇は愛する皇子をどうしても天皇にしたかったのです。
その為に色んな策を講じてライバルの皇子達を退けて来ました。
しかしそれでも草壁皇子が先に亡くなります。
皇子は身体があまり丈夫ではなかったのです。
何故岡宮天皇として陵が存在するのかは分りませんが、それらの思いが形になったのでしょうか?
ちなみにここからの景色は中々良いです。
近鉄特急のさくらライナーが走ってます。
今の時期はガラガラです。