2012年10月30日火曜日

天誅組2



天誅組終焉の地。
ここには吉村寅太郎氏の墓があります。
かなり立派です。
というか、神の様な扱いになっている。
他にも幾つかの墓石らしいものがある。
どうも今、天誅組サミットというものをやっている様で、のぼりも沢山立っている。

天誅組



東吉野村から宇陀にかけて天誅組の史跡が数多くある。
天誅組?
今回初めて聞いた。
この史跡、ちょっと近寄りがたい雰囲気。
天誅組とは明治維新の魁。
残念ですが苦手分野です。

2012年10月28日日曜日

ニホンオオカミ像2



ニホンオオカミ像の川を挟んで向い側に小川城跡がある。
小川城は戦国時代のはじめ、小川氏によって築かれたものである。
小川の地は川上村を経て熊野に通じる東熊野街道、宇陀郡から伊勢に通じる伊勢南街道が通る要衝の地であった。
小川を眼下に見下ろす山上のハルトヤ城は高見川が山麓を取り巻く様に流れ、山上からは吉野山が遠望出来る要害の地であり、今も山上から山腹にかけて遺構が残っている。
今回は時間の関係で訪れる事は出来ませんでした。

ニホンオオカミ像の地には天皇陛下も訪れています。
昭和26年と書かれていますから、昭和天皇ですね。

「狼は滅び木霊は存ふる」、三村純也歌碑がある。
丹生川上神社中社に木霊神社があるが、何か関係があるのだろうか?

ニホンオオカミ像



東吉野村にニホンオオカミの像があります。
明治38年、東吉野村で生きたまま捉えられた若い雄のニホンオオカミをイギリスの動物学者に8円50銭で売ったそうです。
おそらくそれが最後のニホンオオカミです。
今は大英博物館で標本になっているという事です。

東の瀧3



山口 誓子の歌があります。
私は無学で、最初山口けいこって誰や?と一緒にいた友人に聞きました。
山口せいしと読むらしいですね。
授業でも習った、と言われました。

東の瀧2



水神、龍神が祭られています。
おそらく夏場には沢山の客が来て、淵で泳いでいるのだろう。
きっと中には滝壺に飛び込む人もいるのでしょうね。
罰当たりという事もありますが、多分かなり危険なのでしょうね。

東の瀧



丹生川上神社中社から歩いて5分とかからない。
東の瀧へ。
この瀧の淵を夢淵というらしい。
美しいね。
吊橋、夢橋を渡って東の瀧へ。
ここはキャンプ場になっている。

ツルマンリョウ自生地



丹生川上神社中社から東の瀧へ移動途中、小さな社を発見。
丹生川上神社中社の末社であるらしい。
紀州東照宮と水神社である。
その直ぐ横に天然記念物ツルマンリョウの自生地がありました。
以前は沢山あったものも、大分とたれて少なくなった様です。

丹生川上神社中社6



丹生の真名井(清めのお水)
御本殿裏手の乎牟漏岳を分源として罔象女神のみずみずしい秘めた力と恩恵を受けた御神水が御本殿の地下を脈々と通り、御井戸に滾々と湧き出ております。

ここでは自由に飲む事が出来ます。
ちゃんとコップも洗い場も用意してくれてます。

丹生川上神社中社5


爺婆石
西の参道口で爺婆石が出迎えてくれる。
鳥居に向かって正面左側が爺石右側が婆石で夫婦石とも呼ばれている。
かつてこの地方では木材の搬送の主力が筏で享保年間より紀州に送り出すのに始まったとされる。
東吉野村より切り出された木材は筏を組みこの社前、爺婆石下の所を目安として川をせき止めて水を溜める鉄砲ぜきをつくり鉄砲水を送って筏を流す処から筏乗りは多年の経験を積んで一人前となったが、この筏にて川を下るという事は命がけの仕事であった。
道中の安全を翁に祈る信仰がいつしか生まれ、それが爺婆石の姿となった。
その後、時代の変遷と共に木材の運搬も自動車を主体としたものに移り変わり、筏流しも見られなくなったが、道中の安全を願う心は今も変わらない。
更には当地区は長寿者も多く、延命長寿・夫婦円満を願い、爺婆石をなでる老若男女の姿が日々見受けられる。

丹生川上神社中社4



丹生龍王大神社
境内には龍神をお祭している。
山の上の龍神、高龗神。
谷の龍神、闇龗神。

丹生川上神社3



境内にある、末社木霊神社です。
洒落ではありませんが、ちょっと気になる神社です。
こだま神社と読みます。
木材、林産業の守りの神です。
昭和57年に、小川郷の木材林産協同組合市場開設30周年を記念し、和歌山の伊太祁曽神社から勧請しました
祭神の五十猛命は須佐之男命の御子神で、林業の神として信仰されています。
木種(こだね)をもって天降(あまくだ)り、大八洲国(おおやしまぐに)をことごとく青山にしたという。
『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされています。

丹生川上神社中社2



ここには沢山の摂社や神木、見所があります。

相生の杉
樹齢800年程の杉の大木が相い対いする様に立つ。
夫婦円満、延命長寿の御加護があると信仰されています。
夫婦杉系ですね。
他にも樹齢1000年クラスの杉もあります。
それだけこの神社が古くからあるという証拠です。

吉野離宮跡
ここが吉野離宮?
確か吉野にあったと思いましたが、ここ東吉野村という説があります。
雄略天皇が御獵なされた小牟漏岳の麓秋津野の野辺、というくだりがあるそうです。
また雄略天皇と秋津野のくだりも、川上村の蜻蛉の滝の事だったと思います。
確かに古代の話なので、本当の所は微妙です。
それに纏めて吉野、と思えばそれ程重大な事でもないのかも。

丹生川上神社中社



東吉野村に移動し、丹生川上神社中社に参拝。
やはりここにも黒駒、白駒は居ます。

以下が丹生川上神社中社の説明です。

当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。
763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。
明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。
そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。
本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

2012年10月27日土曜日

丹生川上神社上社3



丹生川上神社上社は綺麗で明るく、気持ちのいい神社。
ここは狛犬ではなく、駒馬です。
これはかつて奉幣に際し、祈雨の場合には黒馬を、止雨の場合には白馬を奉るのを常としていた事に因んでいるものと推測される。
現在では祈願に際し、絵馬を奉納する風習が全国的に普及している。
ここの摂社の山之神社、大山祇神です。
この神様、吉野周辺の神社には良く見かけます。
狛犬が愛らしいです。

丹生川上神社上社2



境内の一角に遷宮前にあった場所、ダムの底(実際には底ではなく、昔の道路沿い)の神社を参拝する拝所がある。
だがこのダム、水が溜まらないダムとして有名。
水を溜めると、何処からともなく抜けて行くのだそうな。
また、周辺はその為か、地すべりの危険性も囁かれている。
つい最近も大きな土砂崩れがあったが、それは多分台風の大雨が原因なのでしょう。
すぐそばに大滝ダムの体験施設があり、大雨体験やダムの説明などをしていたのですが、最近は閉鎖していて、危険だから近寄らない様にされています。
そこも危ないって事なのかな?
でも最近は少し水が溜まっている。
少しは改善されたって事?

丹生川上神社上社



額には「神雨露麗」と書かれている。
「たかおかみ」という事なのでしょうね。
龍神様ですね。
この神社は元々この下の大滝ダムの中にあった神社です。
最近上に引っ越しました。
何年も前から行ってみたかった神社です。
ただ、実は今回行ってみるまでは引っ越した事を知りませんでした。
なので、カーナビを頼りに行くのだが、ダムの下の方へ案内する。
確かに昔通っていた道すがら、丹生川上神社の看板があって、その頃から行こう行こうと思っていたのです。
ダムが出来て新しい道を走ると、看板は上の方を案内していました。
その時に気付くべきでした。
僕のカーナビは2003年のものですから。
平安時代の際場跡も引っ越して来てます。
御神木も切られて輪切りにされ、社に飾られてます。